大石内蔵介が参考にした~長崎喧嘩騒動!!~

その昔、「忠臣蔵」の大石内蔵之助が討ち入りの時、参考にした事件が長崎であったのをみなさんご存知ですか?

時は元禄13年(1700)12月19日、大雪だったその日、諏訪神社で用事を済ませて帰路についた藩士2名の姿がありました。 滑りやすい雪解けの道に1人は69才の高齢だったこともあり竹の杖をついています。
2人は長崎近郊に領土を構える深掘藩の家臣で深掘氏は当時は佐賀藩に属しその家老を務める由緒正しい家柄で、長崎の五島町(長崎港そば)にも屋敷を構えていました。
この藩士達はその屋敷へもどる途中だったのです。
2人が五島町の屋敷に近い「天満坂」と呼ばれる石段(現:興善町 法務局裏)を下った時でした。
杖をついていた藩士がつまずいて倒れ、その時はねあがた泥が、たまたま通りかかった長崎の町年寄り、高木彦右衛門の使用人、惣内にかかってしまったのです。
高木彦右衛門は当時、唐蘭貿易において幕府直轄の役人を命ぜられた有力町人。
泥をはねられた惣内は、主人の威光を笠に藩士らに文句をつけ始めます。
藩士達は丁寧に頭を下げ、その場は何とか収めたのですが、その日の夕方、泥をかけられた惣内をはじめとする高木家の使用人ら約20名が五島町の深掘屋敷に押しかけ、乱暴、狼藉の上、石段で出会った2人の藩士の刀を奪い去っていったのです。
刀は言わずと知れた、武士の魂。
大きな恥辱を受けた2人は、話を聞き集まった深掘の仲間ら19名と共に翌早朝、高木邸に討ち入りするのです。
討ち入りはご法度、死を覚悟してのことでした。
2人は見事に本懐を遂げ、 それぞれ別の場所で切腹して果てたそうです。
事件はすぐに通報され、長崎奉行所は幕府にも伺いをたてました。
結局、両者とも死罪、追放、島流しなどの重い処分を受けます。
しかし事件後、高木氏を優遇していたはずの幕府、高木家の横柄な態度に以前から反感を持っていた町民達は終始、武士である深掘氏側に好意的だったそうです。

長崎の殿方達は包容力のある楽天的なおっとり型の人が多いといわれています。
しかし、今から約300年前の長崎の殿方達は現在の殿方達とはちょっと違うようですね。

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