遠山の金さん、彼は華のお江戸の名奉行と謳われ、今日まで幾度となく映画やドラマ化されてきました。
しかし、彼の生い立ちや家族、背中の桜吹雪は偽物(実際は女性の生首だったとか)など、色々と不明な点もあるのです。
しかし、そんな不思議な彼の名奉行ぶりに影響をもたらした人物ははっきりと明確に文献に残っています。
それは彼の父親「遠山左衛門尉景晋(とおやまさえもんのじょうかげくに)」。
彼もまた息子同様、人情派の名奉行だったのです。
こんなエピソードがあります。
出島のカピタン部屋で帰国を目前に控えたオランダ商館長ドゥーフが苦悩の表情を浮かべていました。
彼は歴代のオランダ商館長の中で、もっとも長い間、出島に在職し、もっとも長崎の人々に好かれていて、もっとも大活躍をした人物でした。
そんな彼が苦悩の表情を浮かべているのには訳がありました。
彼と丸山遊女・瓜生野(うりゅうの)の間にできた息子・丈吉(じょうきち)をオランダへ連れて帰りたいと幕府へ願い出たものの、却下され困惑していたのです。
当時、混血児に対する偏見の強かった日本、息子の将来を案じ、ドゥーフは、ならばと養育費を託し、息子が成人したら出島で仕事ができるようにと長崎奉行所に前代未聞の嘆願書を提出したのでした。
前例がないこの難しい願いを快く引き受けたその人こそが、ときの長崎奉行「遠山左衛門尉景晋(とうやまさえもんのじょうかげくに)」あの「遠山の金さん」の お父さんだったのです。
自らも息子を持つ親としてドゥーフの心情を他人事には思えなかったのでしょう。
奉行は約束を守り異例の取り計らいで14才の丈吉を地役人に任じました。
さらに「ドゥーフ」とも読めるように「道富(みちとみ)」という名字までも与えました。
しかし残念なことに丈吉は17才の若さで亡くなりましたが。
<長崎奉行>
長崎の行政、司法、軍事全般を掌握し、管理する役職。
特に貿易と外交が最も重要な職務とされ、唐やオランダとの貿易を監督し、諸外国に対して万一のときには将軍の名のもとに、号令を出す権限もあったほどだといいます。
<主な功績>
遠山左衛門尉景晋が着任したのは1812~1816年のわずか4年。
この頃の長崎はオランダ船があまり入港せず、財政が困難な時期でもあり、景晋は役所の雑費を節約させ二割減を成功させています。
長崎奉行所立山役所跡で当時の池や石燈籠が発掘されていますが、その中に「遠山左衛門尉家中」の文字が刻まれている石燈籠が見つかっています。