古賀十二郎(1879~1954)は長崎学(※注)の基礎を築いた大歴史学者です。
郷土史研究家の系譜をたどると必ず十二郎にいきつくと言われるほどです。
生涯をかけて残した長崎学の著書も膨大です。
彼の名前を全国的に有名にしたのは映画「長崎ぶらぶら節」です。
生家は五島町の大店「万屋」で、代々筑前黒田(福岡)藩長崎屋敷のご用達をしていました。
明治28年、長崎市立商業学校を首席で卒業し、この長商時代、菅沼貞風の「大日本商業史」と、呉秀三博士の「シーボルト」に長崎の歴史の深さを感じ、その一生を長崎の研究に向かわせたと言われています。
その研究のためには外国語の修得が必須だと思ったのでしょう。
商業学校を卒業後、東京外国語学校(現・東京外国語大学)に入学します。
外国語学校を23歳で卒業後、広島で3年間ほど英語教師を務めた後、稼業を継ぐため長崎に帰ってきます。
しかし稼業よりは長崎学の研究に専念したようで、帰崎するとすぐに「長崎評論」の創刊や、第一期長崎史談会を作るなどその活躍が始まります。
大正時代には長崎市史編纂事業が始まり、十二郎は編集主任となり3年の年月をかけて「長崎市史風俗篇」を完成させました。
内田魯庵が朝日新聞紙上で、この「長崎市史風俗篇」を沼田頼輔の「日本紋章学」高野辰之の「日本歌謡史」と並んで日本三大名著と絶賛したのは有名な話です。
このほか、十二郎の著述した書籍・文献は数多く、「西洋医術伝来史」「長崎と海外文化」「長崎絵画全史」「長崎開港史」「丸山遊女と唐紅毛人」「長崎洋学史」などがありましす。
いずれも長崎学の後進を先導する名著です。
現在も十二郎のライフワークとも言える「長崎外来語集覧」の刊行プロジェクトが進行しています。
「長崎外来語集覧」は、十二郎が明治末から執筆を開始し、昭和29年の亡くなる直前に脱稿したものだそうです。
十二郎はたいへん個性的な人物だったようです。
長崎商業の同級生が長商75年史に寄せた一文には「そのころの生徒はラシャの外套に金ボタンと、粋な服装をしていたが、古賀は和服に短いはかまをつけ、勉強ばかりして、あまり人と物を言わない男だった」とあります。
また古賀は無欲の男だったようで多くの学者がその実力を評価し、再三博士論文の提出を勧め、またオランダのライデン大学から教授としての招きを受けたにもかかわらず、肩書き無用と在野で一生を終えました。
さらに晩年、貧困と老体にムチ打つ古賀翁を長崎市は名誉市民に推薦したがこれも固辞しました。
受けた賞としては、大正9年、日蘭親善に尽くしたとしてオランダ女王からもらったオラニエ・ナッソウ勲章と、西日本新聞社から長崎における近世文化史研究の功績で贈られた西日本文化賞ぐらいだったようです。
一方、研究のためには金を惜しまず、花街風俗史研究のために連日、芸者・舞妓を従えての調査を繰り返していたようです。
晩年の十二郎を悲運に追いやったのは原爆でした。
家屋敷、膨大な蔵書も灰と化し、戦後は大村市に引き込んだままだったようです。
その後長崎に帰りましたが、経済的に困窮していた十二郎が心のよりどころにしていたのは県立図書館だったそうです。
昭和29年9月6日、西山の九電寮・梅屋敷の一室で寂しくその生涯に幕を閉じ、本蓮寺に葬られました。
十二郎の一生は波乱万丈であったと言われていますが、左手の甲には“忍”の入れ墨があったという、短気であった自分を戒めるものだったのでしょう。
※注
国内外の交流史や文化史など様々な角度から長崎をとらえる学問の総称