深堀町の浜恵比須

~深堀町の歴史~
城下町の佇まいを残す風情ある港町で、長崎市の南西に位置し、中心部から車で約30分のところにあります。
海に恵まれた地の利を活かし、その昔から、往来する貿易商人との交流がおこなわれていました。
深堀の歴史は古く、縄文時代から生活が営まれていたことが、貝塚など遺跡の発掘調査によって確認されています。
「深堀」という地名の誕生は鎌倉時代にさかのぼります。
上総国の((現・千葉)の三浦仲光氏は、承久の乱(1221年)で鎌倉幕府方として活躍した褒美に、この肥前国彼杵庄戸町浦(現・深堀)を拝領しました。
地頭職として赴任し、姓・町名ともに深堀と改名。
その後、有馬氏から西郷氏、 江戸時代には佐賀藩に取り込まれました。

2015-02-19 13.16.37

 

~深堀町の浜恵比須の歴史~
(1)佐賀から伝わった説
鍋島勝茂が1615年の大阪夏の陣に参戦したとき兵庫の西宮神社から譲り受けた像を、藩内に「西宮社」を建て、祀ったことから藩内に広がりました。
その頃、鍋島茂賢は佐賀藩深堀領主となっており、佐賀から多くの家臣や要人が深堀にきて居住します。
それまで高浜や三重などの領内から生活物資を取り寄せるために作られた港(御船手)の波止崎に漁師たちが、漁業の神様として鳥居を建て、恵比須を祀りました。

(2)瀬戸内から伝わった説
深堀町2丁目にある亀ヶ崎龍宮社の「鰐口」には1677年弥生、北忠右衛門・高濱十郎右衛門の網元が大漁・家内安全の祈願が成就したお礼に奉納と刻まれています。
近畿地方では1500年代にはすでに網漁業が普及しており、漁民たちは瀬戸内から西海へ進出したといわれています。
兵庫の西宮恵比須総本社の信仰も、西海進出を目指した大漁を願う漁民たちによって伝えられた可能性があります。

 

 

~色づけされている意味~
風化を防ぐために始まったとされています。
最初に色づけしたのは船津浜恵比須ではないかといわれています。
毎年8月20日に子ども会の夏まつりと合わせ、色づけを子ども会が手伝っています。

 

 

※参考資料
深堀地区まちづくり推進協議会
恵比須でまちづくり部会 編集
“城下町「深堀」歳時記 恵比須カレンダー”

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