長崎丸山遊郭〜愛人のはしり?キャリアウーマンのはしり?〜

江戸時代、長崎の丸山は江戸の吉原、京都の島原とともに天下の三大遊郭とうたわれ栄えた場所です。
300年以上の歴史があり、「長崎ぶらぶら節」の舞台にもなりました。
長崎は、西欧・中国を初めとする諸外国と交流しながら、歴史を作ってきた町で、日本が、200年以上も鎖国をしていた間でさえ、外国と切り離されることは一度もありませんでした。
日本全国で「鎖国だ」「他の国の文化なんかいらない」というのが当たり前の時、長崎の街には普通に異文化が存在し、普通に異人さん達がいたのです。 (もちろん、彼らの居住地や行動は制限されていたが・・・。) しかし、出島など外国文化を象徴する町もあれば、日本を象徴する町も、長崎には存在したのです。
長崎には、和(日本)・華(中国)・蘭(オランダ)の、3つの文化が混じりあい、存在していました。
異国情緒あふれる長崎で、今でもなお、当時の和(日本)の風情を残す町、それが花街(遊郭)のあった丸山なのです。
遊女というと、生活のために売られたり、だまされて捨てられたりというような悲しいイメージがあるが、この丸山遊女たちには「悲しい」イメージから程遠いのです。
当時、「江戸の気風に京都の器量、長崎の衣装で3拍子そろう」と言われたほど、彼女達の衣装は華やいだものでした。 遊女といっても、元は良家のお嬢さんも多く、若く美しく、歌舞音曲や、茶道や華道、文学などの才覚がある遊女達は、一般市民の男性から見れば、まさに高嶺の花でした。
遊郭に遊びに行くには、大金が必要だったのです。
(※延宝版日本永代蔵では、井原西鶴が「長崎に丸山という所なくば、上方の金銀、無事に帰宅すべし」と当時の繁栄ぶりをうたっています。)
遊女たちは、あちこちの催しに招かれ、能楽も披露します。
日本女性としての嗜みと、才覚を持ち合わせた、あこがれの存在だったのではないでしょうか。
他の花街と決定的に異なったのは、長崎の遊女達は、外国人と交流があった、ということでです。
当時、鎖国中の日本、外国とのつながりを唯一もてるのが長崎だったのですが、日本に来る外国人には、夫人同伴を認められなかったため、その代わり居留地に遊女が出入りすることが許されました。
丸山は、日本どころか海外にもにその名を知られた国際的な花街だったです。
外国人居留地である出島や、唐人屋敷に出入り自由なのは、丸山遊女だけで彼女達は、日本行き(相手が日本人)、オランダ行き(相手がヨーロッパ人)、唐人行き(相手が中国人)に分かれていました。
外国人たちは、居留地から外に出られないですから、遊女達が相手の元へ足を運ぶのです。
そのせいか、丸山遊女達は江戸や京都の花街と比べると格段に自由があり、出島や唐人屋敷などに、外泊してくる遊女も多かったようです。
出島では、当然食事は洋食、彼女達は鎖国で外国文化のカケラも入っていない時代に、牛肉、バター、コーヒー、ビール、ワイン、チョコレート、カステラなど、珍しいものを、食べたり飲んだりしていました。
外国産の珍しい品物を贈られ、華やかな暮らしだったそうです。
丸山遊女は他の花街の女達と違い、いわゆる「一夜妻」みたいな、悲哀はまったく感じられません。
居留地行きの遊女たちは、もはや日本人妻といっていい存在であり、「夫」である男性の身の回りの世話など、妻としての役割をすべて果たしていました。
当時の日本人など及びもつかないような、いい暮らしをしていたという話、数人の男達を手玉にとって、豪勢なものを貢がせたという話、異人さんの子を生んで、たくさんの養育費を受け取ったという話も多く、いずれにしても、当時「長崎の恋は、一万三千里」といわれたほどであり、「異人さん」と遊女達の恋は多かったようです。
そう考えると丸山遊女達は、外国語を話す、バリバリのキャリアウーマンだったのではないでしょうか。

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