福地桜痴~福地源一郎~

福沢諭吉と並んで「天下の双福」と称された福地源一郎。
明治時代前半、「東京日々新聞(毎日新聞の前身)」の主筆として筆をふるい、初めて社説を採用するなどジャーナリストの先駆者として大きく貢献し、新聞界を去った後は、文学者として活躍した人物です。
彼の文化面での功績はかなり高いのですが、彼について意外に知らない人が多いのです。
功績や人間性はもちろんのこと、名前すら聞いたことがないという人もいるでしょう。
そこで今日は彼の事をご紹介させていただきます。

福地 源一郎(1841~1906年)は、幕末期の幕臣、明治時代のジャーナリストであり、作家です。
幼名は八十吉。号は桜痴。

<1841年>
父 福地苟庵(こうあん)、母 松子の長男(上に姉が6人いた)として長崎新石灰町に誕生しました。
14、5歳で蘭学を学び始めます。

<1857年>
海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って咸臨丸で江戸に出ます。
以後、2年間ほどイギリスの学問や英語を森山栄之助の下で学び、外国奉行支配通弁御用雇として、 翻訳の仕事に従事することとなります。

<1861年・1865年>
幕府の使節としてヨーロッパに赴き、西洋世界の視察を行ないます。
しかし、源一郎は蘭学修行や渡欧経験などから幕府の鎖国体制には反対の開国論者だったのですが、尊王にも反対する佐幕派だったようです。

<1868年>
「江湖新聞」を発行して次のように論述します。
「ええじゃないか、とか明治維新というが、ただ政権が幕府から薩長(薩摩藩と長州藩)に変わっただけではないか。ただ、幕府が倒れて薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と厳しく述べています。
これが、新政府側の怒りを買うことになり、新聞は発禁処分、源一郎は逮捕されてしまうのです。
ちなみにこれは、明治時代初の言論弾圧でした。
その後、木戸孝允が取り成したため、無罪放免となります。

<1870年>
大蔵省に入り、翌年岩倉使節団の一員として各国を訪問しています。

<1874年>
政府系の東京日日新聞に入社し(主筆、のち社長)、ジャーナリストとして大いに筆名が上がりました。

<1882年>
丸山作楽・水野寅次郎らと共に立憲帝政党を結成し、天皇主権・欽定憲法の施行・制限選挙などを政治要綱に掲げます。
自由党や立憲改進党に対抗する政府与党を目指し、士族や商人らの支持を受けましたが、政府が超然義を採ったため存在意義を失い、翌年に解党しました。

<1888年>
経営不振から東京日日新聞社を退社となり、代わって福地が執念を燃やしたのが劇場経営です。

<1889年>
千葉勝五郎とともに、東京の木挽町に歌舞伎座を開設し、福地は舞台脚本を多数執筆し、名優市川團十郎(9代目)らがこれを演じました。
<1903年>
團十郎(9代目)が死去すると、舞台から手を引きます。

<1904年>
衆議院に立候補し、当選。

<1906年>
糖尿病と肺病の悪化により64歳で死去。

福地源一郎著
・幕府衰亡論
・幕末政治家
・甦る幕末
など

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